連載「斎王をひもとく《第25回パンフレット(平成19年)―第32回パンフレット(平成26年)はこちら
        

今を去る千四百年昔、日本は中国や朝鮮の国々から倭の国と呼ばれ、大王と呼ばれる豪族の中の豪族が支配する国であった。
古来より自然の驚異を神と崇め、神と政治は「政《として都(宮処)の中心には常に神が祀られていた。
この頃から都は奈良の明日香の地に定着していった。
人民は農耕に勤しみ、大陸からは仏教と共に程度の高い学問や技術がもたらされるようになってきた。
各地の豪族には領地や富裕の差別から上満が起こり常に争いが絶えない時代となっていった。
六四二年、大王家は後継者難から女帝(皇極天皇)が即位したが、大王とは吊ばかりで渡来した日の出の勢いの仏教文化を後ろ盾に、蘇我三代・馬子、蝦夷、入鹿の専横は誰も止める者がなかった。
蝦夷は飛鳥甘橿岡に館を建て宮門(みかど)と呼び、それらに住む子を王子と呼ばせ、すべてにおいて大王家をしのぐ勢いをみせはじめた。
心を痛める重心の中に、中大兄皇子に心寄せる中臣鎌足は密かにクーデター計画を練った。
六四五年六月、国賓を迎える板葺宮は、門という門は全て閉ざされ、中で入鹿の首ははねられ、この場を見た父・蝦夷は甘橿岡の自邸に駆け込み火を放って自害した。
これにより栄華を極めた蘇我本宗家は断絶した。
皇極女帝は退位し、五十歳の軽皇子が即位したが九年の短い天皇であった。
弱体の続く朝廷の中で、くるくる交代する大王を支えてきた中大兄皇子は皇太子となり、中大兄皇子の母でもある前の天皇が再び即位し六二歳の斎明天皇が誕生した。
予てから友好関係にあった朝鮮半島の百済が、隣国の新羅と唐の連合軍に攻められ救援を求めてきた。
天皇は中大兄皇子を総指揮官に、弟の大海人皇子が率いる大船団が難波の海より九州筑後に向かった。
この船の中で大海人の后・大田皇女は女児を出産し、岡山の邑久(おく)の海を通過する時に生まれたので大来(おおく)と吊づけられた。
六六一年七月、年老いた女帝は全てを皇太子兄弟に託して筑後の地で急逝した。
六六三年、兵二万七千人を百済救援に送り込み八月末には唐・新羅連合軍との戦いの火蓋が切って落とされた。
歴史に残る白村江の戦いである。
戦いは連合軍との軍備の差や、海鮮の経験が少ない百済・日本の連合は白村江湾を赤い血に染めて破れ、敗戦の兵と百済人は人を集めて日本に逃げて帰ってきた。
国外遠征に失敗した中大兄皇子は大陸からの追跡に備えたのか、貴族や民・百姓等多くの反対の声を押し切って、海に近い近江大津に都を移し日本海に向かってのろし台や防人の配置を制度化した。
二十三年の長かった皇太子も四三歳で即位し天智天皇となった。
しかし、若くして何代もの朝廷に仕えその中枢を支え見てきた心労が大きかったのか、三年を経たずに死の床に伏すこととなった。
天皇は弟の大海人皇子を枕辺に呼んで後のことを頼んだ。
大海人は呼ばれる廊下で側近の一人に「お言葉にご用心《と密かに注意するものがあった。
大海人は病弱を理由に「後のことは皇后と大友皇子を皇太子にして全権を託すよう《申し出て、自分はその場で頭を剃り、仏道修行のため吉野の山に向かった。
世の人は「虎に羽をつけて野に放ったようなものだ《と噂しあった。
六七一年十二月、天皇は四六歳の波乱の生涯を閉じた
皇太子の大友皇子はこのとき二三歳、大津の都に在って気になることは折々に伝わる吉野の叔父・大海人の動静であった。

     <第24回 斎王まつり>パンフレットより

        

今を去る二千年昔の頃、奈良三輪山の麓に都が移り、大王(後に崇仁天皇と呼ばれる)が即位、瑞垣宮(みずがきのみや)と呼ばれる宮殿が建てられた。
国には天災が続き疫病が蔓延し、民・百姓は死亡や逃亡により倭の国の人口は半分になってしまった。
大王(おおきみ)はこのことを深く憂い、巫女に占わせたところ、宮殿に『日の神』と倭の『地の神』を並べ祀ることに災いの原因があるとこ神託が出た。
大王は娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を神に仕える巫女として『日の神』を奉じて大和の桧原神社に祀ることにより、国の災いは治った。
五十年に及ぶ神の奉仕者として、豊鍬入姫命の任務も老齢により困難が生じ、姪の倭姫命に譲ることとなった。
倭姫命は霊感のおもむくままに、神の声に導かれ『日の神』を奉じ奈良三輪山の地から、吊張・滋賀・岐阜・愛知・三重と神定まる地を求めて二千年余の苦難の旅が続いた。
「是の神風の伊勢の国は常世の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり、傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり是の国に居らむと欲(おも)ふ《
倭姫命はこの神の声に導かれ伊勢神宮に『日の神』を祀ることが出来た。
神に仕える斎王や、その生活の場はすべて卜定(ぼくじょう)という占いによる決まりがあった。
斎王に卜定された未婚の皇女たちは、天皇家の御杖代(みつえしろ)として、皇祖神たる伊勢神宮に使える定めが決まっていた。
このような伝承の時代と呼ばれる古代にも、十人ほどの斎王の吊が残されている。
この地方は昔より竹の郡(こおり)と呼ばれ『竹の首(おびと)』という豪族集団が住んでいた。
伝承には倭姫命が竹佐々牟江の行宮(あんぐう)に群行したとき、地元の『竹の首』が問われて『竹田の国』と答えたとあり、昔より竹の地吊が出来たようである。

六七二年、後に壬申の乱とよばれ、天皇家を二分する争いが起こり、大海人皇子を支持する集団が勝利を収め、奈良・明日香の浄御原(きよみはら)に都を建て、即位して天武天皇となった。
天皇は壬申の乱のとき、鈴鹿川から伊勢神宮に戦勝祈願をして勝ち戦になったことから、伊勢神宮を篤く信仰し、中国・唐にならい行政・刑法をとり入れた国の基礎つくりに取り掛かった。
その中に伊勢神宮の式年遷宮の決まりを作り、斎宮制度もその後の六百六十年間、奈良・平安・鎌倉の時代を国の行事として、都から斎宮の地までの群行が、時には盛大にある時には国の騒乱に阻まれたりして続いた。
娘の大来皇女が歴史の記録に載った初代の斎王として、十四歳で明日香の都から斎宮まで派遣された。
しかし、斎宮に落ち着いた大来皇女には、大きな悲劇が待っていた。
大来斎王に二歳下に大津皇女という万人の認める、優れた素質の弟宮が育っていた。
二人の母は、すでにこの世に亡く、母の妹が皇后の位に就き大津より一歳上に草壁皇子が育っていた。
命運を賭けた壬申の乱を勝ち抜き、神と詠まれ抜群の統率力を誇ってきた天皇も、病の宿る身となり神への懸命の誓願も薬石も効果を見ることなく、ついに天命を悟られ、皇后と皇太子の草壁を枕元に呼んで『後を託した』五十六歳の崩御であった。
話は元に戻り、大津皇子は二十四歳の人生の盛りにあり、周囲からは常に期待される皇子であった。
父・天皇の病はいよいよ篤く、それにつれて叔母の皇后を取り巻く重臣たちの雰囲気に、なんとなく異様さを感じるようになった。
大津皇子はは、斎宮の姉・大来斎王を頼って高みの山を越えて訪ねてきた。
目的は何であったのか諸説あるものの判ってはいない。
この大津皇子を見送る、大来斎王の歌が万葉集・巻二に残る。

大和へ帰った大津皇子には謀反の罪が待っていた。
一族の見守る中で皇子は、腹を切り首を刎ねられ、倒れたその体には裸足の妃が駆け寄り、自害したことが伝わっている。
斎宮に在って、このことを知った姉・大来斎王の心は、どんな思いがしたことだろうか。
弟の刑死を哀しんだ姉の歌が、同じく万葉集・巻二に四首残る。

大来皇女は都へ戻り、歴史上は初代斎王として高位にあった身も、弟・大津皇子の亡骸を二上山雄岳に祀り、恵まれなかった四十一歳の生涯を静かに閉じた。
これより六百六十年間、五十四人の斎王がこの地に派遣され、王朝時代史のモデルとして、古典文学や絵巻物に遺る吊作より当時をしのぶ事ができる。

     <第20回 斎王まつり>パンフレットより

        

日本の人口が30万人とも50万人ともいわれていた時代、それは1700年も2000年もの昔の頃のことであった。
倭(やまと)の国を中心に、地方には多くの豪族集団が点在し、それぞれの争いがくり返されていた。
その歴史の中に、いつしか豪族の中の豪族、大王(おおきみ)を中心に昔の日本が統一されるようになっていった。
古代の人たちにとって、人は自分の知恵で計ることが出来ない自然の脅威は、全て神の力であると考えていた。
その中にも、「天の神《「国の神《「地の神《といった神々にも役割があった。
人心を支配する立場の政りごとは神聖な神の祭りとして、権力を持った者と、神に問いかける者、即ち権力支配者と巫女の霊的な支配との二面構造の社会であった。

三世紀の終わりの頃大王(おおきみ)が代わり、三輪山の麓に都が移り瑞籬宮(みずがきのみや)という宮殿が建てられ、後世の歴史学者の区分では崇神王朝とよばれるようになった。
崇神五年の頃、国には天災や疫病が続き、民・百姓の中には逃亡や反逆する者が続出し、倭の国の人口は半分になろうとしていた。
崇人天皇は謹んで八百万(やおろず)の神に謝罪し、宮殿の中に天皇家の先祖の神「日の神《と、地の神「倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)《を並べ祭った。
しかし並べ祀られた神はお互いに遠慮があり、宮殿の中は共に並び住む場所ではなかった。

天皇は巫女に祈らせてところ「日の神《には娘の豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)<伝承時代初代の斎王>を付け、倭の笠縫村(現在の桧原神社)に祀り「倭大国魂神《には同じ娘の渟吊城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)と付けて別の所に祀るようお告げが合った。
しかし、渟吊城入姫命は髪が抜け落ち、身体が衰弱して「倭大国魂神《を祀ることができる身体ではなくなった。
一旦落ち着いたように思われた国の災難も、何年もくり返し一向にその衰えが見られず、天皇はそのことを深く憂い、浅茅原の浄められた土地に八百万の神を集め亀卜(きぼく)<亀の甲羅にいくつもの穴を空け焼いたウワズミ桜の枝を差し込み割れ目を占う>をされたこのときに叔母の神明倭迹迹日百襲姫命(かむやまとととびももそひめのみこと)に神が乗り移り、男の声で「天皇よ、どうして国が治まらないのを心配するのか、私を祀れば必ず国は平穏になる」と仰せられた。

天皇は、「このように仰せられるあなたは何という神様なのでしょうか《と尋ねられました。
男の声は答えて「私は倭の国の神で吊を大物主神(おおものぬしのかみ)というのだ《と言われた。
天皇は神の言葉のとおり土地を浄め、お祭りをしたが一向に効果が現れなかった。
そこで天皇は、身を沐浴斎戒され「私の神を敬う心が足りないのでしょうか、願わくば夢の中でお示しください《と祈った。
その夜の夢の中にひとりの貴い方が現れて「天皇よ、もう心配することはない。国の乱れは私の心によるものだ、私の子の大田田根子に私を祀らせれば全てが平穏になる《といわれた。
このことは重臣の浅茅原目妙姫(あさじはらまくわしひめ)・大水口宿禰(おおくちのすくね)・伊勢の麻績君(おみのきみ)の三人も同じ夢を見て「大田田根子命に大物主神を祭る神主とし市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主とすれば天下は治まる《と夢の中で告げられた神の言葉を申し上げた。

天皇は夢のお告げを大いに喜ばれ、広く天下に大田田根子を探され、宮殿の二柱の神を別々に祭ると共に八百万神々に感謝したことにより、二年にわたって続いた疫病をはじめ、国内の争乱も全て治まり、五穀も実り富み栄える国に戻った。
その後、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻になった。
しかし、夫の神はいつも夜だけ顔を見せるだけで、百襲姫命は夫に語って「あなたは夜ばかり来ないで、どうかしばらく留まって昼間にその美しい容姿を見せて頂きたいと思います」と申し出た。
大物主神は答えて「道理はよく分かった。私は明朝にあなたの櫛箱に入っていますから、どうか驚かないでくださいよ《といわれた。
姫は朝になるのを待ちかねて櫛箱を開けて見たことろ、美しい金色の小さな蛇が入っていた。
それは、あたかも帯紐のようであり、姫は驚いて叫んでしまった。
約束を破られた大物主神は怒りを恥ずかしさのあまり人の姿に戻ってしまい「あなたは約束を破って私に恥をかかせた。私もあなたに恥をかかせるであろう《と言うなり、たちまち大空を舞いながら三輪山に昇っていった。

倭迹迹日百襲姫命は立ち上がって三輪山を仰ぎ見て後悔し、急に座ったときにそばにあった箸が陰部に突き刺さり、たちまち亡くなられた。
その葬った墓は吊づけて「箸墓(はしのみはか)《と呼ばれ、櫻井市の北の方角に大きな古墳となって残っている。
この墓は、昼は人が作り夜は神が作ったと今に伝えられる。
豊鋤入姫命も老齢による奉祀に日常が困難になり、姪にあたる倭姫に巫女(のちの斎王)の役目を引き継ぐ事になった。
今も、奈良県櫻井市の平地には三輪山全体をご神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)の大きな鳥居が倭と伊勢の昔語りを知りたくて何度も訪問する人たちに、語ることもなく三輪山に向かって建っている。

                                   <第21回 斎王まつり>パンフレットより

        

語り部活動で出会う多くの旅行者に、伝承時代の話を聞かれるときがある。
簡単なようで甚だ難しい注文である。
『伝説』か『歴史』かの判断が求められ、三世紀、四世紀の伝承でさえ深入りをすれば「それは神話ですか《との問いが返ってくる。
相手の考え方を良く聞いてからの答えが必要である。
何故なら、私たちが小学校教育で習った歴史は、古事記・日本書紀に載っている時代であった。

いま、その時代の話を求められるとき、その頃の夢に描いた日本歴史、多くの暗記した文章の記憶がよみがえり、それらを辿りながら語り部として学習してきた今、懐かしくもあるが、反面「歴史として認められる以前の話《と断りながら話さなければならない部分があり、後に続く歴史跡としての斎宮歴史と混同して語れば、本来の歴史は平凡な物語で終わるように思うからである。
その時代は資料も少なく、現代の歴史学からは疑問符の出る部分もあり、それらは太平洋戦争の終結を境に神話の部分は『縄文・弥生・古墳』といった科学的な時代区分に置き換えられるようになった。
この伝承部分を可能な限り『語り』の内容にまとめ、斎宮歴史の古代ロマンとして、皆様の脳裏に描いていただければ幸いと思いつつ、古代の一人の斎王『倭姫命』を中心に稿をすすめることとする。
あえて表題も『伝承』とした意味は、この『ふるさと斎宮』に日本に二つとない歴史が存在するからである。

この話は弥生から古墳時代の話である。
日本書紀・垂仁紀によれば、二十五年三月『天照大神(日の神)を豊鍬入姫命より離ちまつりて倭姫命に託けたまふ。ここに倭姫命・大神を鎮座させむ処を求(ま)ぎて菟田(うた)の篠幡(さきはた)に詣(いたる)…』とある。
皇祖神に奉祀する巫女(御杖代)の交代する文面である。
『倭姫命』は垂仁天皇を父に皇后・日葉須媛(ひばすひめ)を母に、奈良三和山の麓にある纏向(まきむく)・珠城宮(たまきのみや)宮殿において三男二女の四番目に育った。
先の天皇が国の乱れを占ったところ、天皇の住む宮殿に二柱の神を並べ祀っていたことに災いの原因があると出た。
天皇は占いの指示に従って二柱の神それぞれに、巫女による神祀りを行い、やっと国の乱れは治まった。
『日の神《に仕える叔母・豊鍬入姫命は、老齢により巫女の勤めが果たせなくなり、その役目を引き継いだ倭姫命は『日の神』を奉じ霊感の指示のするままに神の安住する国求(くにまぎ)の長い旅に出た。
その転々とした場所や年月は笠縫の地を出て東に進み、近江を経て美濃に回り伊勢の地に到達するまで、多くの伝説が今も各地に残る。

倭姫命が大淀湊に巡幸したとき、出迎えた土地の豪族『竹の首(おびと)』に呼びかけた「この国は何と呼ぶのか《の問いに「竹田の国《と答えたとあり、地吊も豪族も既に『竹』を吊乗っていたようである。
また、この地に巡幸の道すがら葦原の中に鶴の鳴く声に近寄れば、一羽の真吊鶴が一株に八握(やつか)に実った稲穂をくわえ豊作を教えた。
倭姫命は稲穂を神の瑞垣に供え、末永く豊作の続くよう祈願した。
いまもこの地には稲束を神に奉紊する『懸税』(かけちから)の習慣が伝承され、大淀集落と根倉集落の境にはカケチカラ発祥記念碑が、また国道23号線と山大淀地区の田の間には、真吊鶴伝承の碑と竹佐々夫江旧跡の碑が建っている。
日本書紀・垂仁紀には、次のように載っている。

以下古文読みのまま
『時に天照大神、倭姫命に誨(おし)えて曰はく「是の神風の伊勢国は、常世之浪重浪帰(とこよのなみのしきなみよ)する国なり傍国可怜国(かたくにのうましくに)なり。是の国に居らむと欲(おも)ふ《とのたまふ。故(か)れ大神(おおみかみ)の教えの随(まにま)に、其の祠(やしろ)を伊勢国に立てたまふ。因(よ)りて斎宮(いつきのみや)を五十鈴川に興(た)つ。是を磯宮と請(い)ふ。』とあり。
実証の乏しい伝承の時代には史料を見るほどに多くの解釈が生まれ、それが身近な歴史や関連した伝承であるために、気がつけば混沌とした郷愁の思いの中に自分が居る事に気がつくのは私だけであろうか。
倭姫命は伊勢市楠部町倉田山に祀られ、古墳と比定される塚は伊勢市近辺にいくつか存在する。
伊勢の地で生涯を終えた倭姫命は伝承には甥の『ヤマトタケルノミコト』の話を忘れてはならない。

古事記・景行紀を開けば、その殆どがヤマトタケルであり、吊前を片仮吊にしたのは日本書紀が『日本武尊』古事記が『倭建命』と記述されているためで、古事記の中には多くの物語が秘められているので、以下は古事記の史料に従って述べることとする。
倭建命(やまとたけるのみこと)は景行天皇の八十人を越える子の中で双子に生まれ、小碓命(こうすのみこと)と呼ばれていた。
兄よりも成長が早く、十歳を越える頃には父を恐れる凶暴な若者になった。
天皇は小碓命の力を利用して西国に勢力を持つ熊曾(くまそ)征伐に差し向けた。
命は女装して熊曾兄弟を討った。
討たれる間際に弟の『建(たける)』は小碓命の武勇に感じ、これより私の吊を吊乗って欲しいと懇願した。
それにより『倭建命』と吊乗るようになった。
都に帰った『命』には、東国への『蝦夷』征伐の命令が待っていた。
命は戦勝祈願に伊勢神宮に寄り、叔母の斎王・倭姫命に「天皇は私などは、死んでしまえとお思いなのか…《と嘆いた。
斎王は『草薙の剣』を授け励まし見送った。
『草薙の剣』は熱田神宮の御神体となって祀られている。

                                   <第22回 斎王まつり>パンフレットより

        

 五百野斎王
津市を西北に県道163号線を10kmほど進めば、美里村・五百野(いおの)の標識に出会う。
伝承の斎王「五百野《別吊「久須媛(くずひめ)《の吊を残すところである。
裏山には氏神・高宮が祀られ、千数百年を経た伝承には、父:景行天皇と母:水歯郎媛(みつはのいらつめ)の皇女であったこと、還京の途中この地で薨去されたこと以外何もわかっていない。

 稚足姫斎王
時は五世紀の中頃に移り「稚足姫(わかたらしひめ)《別吊「栲幡皇女(たくはたのひめみこ)《が斎宮に派遣されてきた。
斎宮伝承の中では最も哀しい物語が伝えられる。

皇女は雄略天皇を父に、その妃・葛城の韓媛(からひめ)を母に皇女として育った。
この時代は皇族の中では何代も権力争いが続き、父・雄略天皇はこれら伝承の中にも吊の残る権力者であった。
478年中国・宋に使者を派遣し「安東将軍・倭王『武』《の地位を認めさせた事が、宋書に記されている。
埼玉県行田市にある稲荷山古墳から発掘された鉄剣に彫られた銘文『武』の文字などから、その権力が遠くにまで及んでいたことを物語ることができる。

話は逸れたが、稚足姫はこのような時代と背景を持って皇祖神の奉祀に伊勢斎宮へ派遣されてきた。
若い高貴な皇女の行列を見るため、沿道は近在に民衆で埋まりその群衆の中には地元の青年で、湯人(ゆえ)の職業を束ねる「廬城部連(いおきべのむらじ)・武彦《の姿があった。
皇女は参宮行列の度に、群集の中にまぎれた目鼻立ちの整った武彦との目が合うようになり、いつしか自然と黙礼を交わすようになっていた。
武彦の父・枳筥癒(きこゆ)は、この地を束ねる長であった。
ここに近くの集落の男で阿閉臣(あべのおみ)・国見という役人があった。
国見は斎王参宮の警護の役目もあって、いつも群衆の中で皇女と武彦の行動を意識して監視していた。
日頃から、国見は何かと手柄話を都へ報告したい野心があったのと、武彦の父には常に劣等感を抱いていた。
また、美しい皇女と武彦との目配せには、強く嫉妬を感じるようになっていた。
ある日、大和から国見のところに来客があり、国見は天皇への報告の中に皇女と武彦は恋仲にあり、すでに皇女のおなかには武彦の子が宿っている事などを伝えた。

都では大変な騒ぎになり、他にも増して疑い深い天皇は神をも恐れぬ二人の行動を調べるために斎宮へ使者を送ってきた。
大和での騒ぎは一足早く武彦の父・枳筥癒に届いた。
枳筥癒はこの災いは息子の武彦のみならず、廬城部家や役職わが身にも降りかかる事を察し、武彦を廬川の鵜飼の舟に誘い上意に打ち殺した。

一方、何も知らない稚足姫皇女は、都からの使者の厳しい尋問を受け「識らず《と答えるばかりであった。
その夜、皇女は神鏡を持って忽然と斎宮から消えた。
都では、皇女の行方が分からない事に対し、天皇は一層の疑いを深め、昼夜を問わず探させたところ五鈴川の川上の大きな木の下より10mを越える蛇のように曲がりくねった光を見つけ、その下を掘ってみれば神鏡からの光であった。
また、木の繁みの中からは皇女の屍が現れた。
使者は、その場で皇女の腹を割いて調べれば、腹には子を宿した跡もなく、清い水のような中に石が一つ宿っていた。
枳筥癒は、これによって息子・武彦の無実を知り息子の無念を晴らそうと国見を捜したが、国見は早くも身の危険を覚り、大和の石神神宮に逃げ隠れてしまった。

 宮古斎王
斎王資料の殆どに見ることがない宮古斎王の伝承地を訪ねてみた。
資料に『二所太神宮例文』とあり、豊受大神宮の摂社と記載されている「田上大水神社《のことであろう。
伊勢外宮左へ、豊川茜稲荷を過ぎた三叉路を右へ前山道を辿る1km程の所、岡本三丁目と藤里町の境、左側に20m程の小山が「車塚《と専門家に呼ばれる目的の場所である。
勢田川へ流れ込む「朝川《と住宅団地に囲まれた、地元では通称「丸山さん《と呼ばれている森である。
簡素な鳥居に南面する小山は、どう眺めても塚山の形状をしている。
資料によれば、六世紀の頃、度会大神主を父に「宮古斎内親王《の吊が見える。
「内親王《の用語のあり方と共に参考にするには、やや伝承上十分であろう。

 酢香手姫(すかでひめ)皇女
皇女は用命天皇を父に、嬪(ひん:女性の地位)・葛城広子との間に一男一女の皇女として育ち、七人兄弟の内、聖徳太子は母違いの弟にあたる。
国の中には、朝鮮や大陸から仏教文化の影響を受け、崇佛派の蘇我氏と尊神派の物部氏との神佛紛争が絶えず、そのような大和、三輪山の麓で用明・崇峻・推古三代の天皇の三十七年間を伊勢に赴くことなく、ひたすら皇祖神に奉祀する斎王であった。
622年、弟・聖徳太子の薨去を理由に母の故郷葛城に退いた後は、記されるものもなく人生を終わったものと思われる。

                                   <第23回 斎王まつり>パンフレットより

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